私は1965年横浜市で魚屋を営んでいる両親のもとに生まれ、高校を卒業するまで横浜で過ごしました。
中学校、高校の6年間は野球部に所属し、甲子園を目指し、グランドで真っ黒になって汗を流すハードな青春時代を送りました。勉強と部活動の両立はとても厳しく過酷なものでしたが、心身の鍛錬にはとても役に立ち、充実した学生生活をおくらせて頂きました。
高校卒業後、大手鉄道会社に就職しました。会社では6年間駅係員として列車の運行等の仕事に携わりました。
26才の夏、建築家の道をこころざし転職しました。
そこから私の建築家としての人生が始まりました。
高校では機械科を専攻していたので、今振り返ると、自分は根本的に、何かをつくり上げる創造的な仕事を追い求めていたのではないかと思います。
当時、私が勤めていた会社があった神奈川県海老名市周辺地域ではアメリカ海軍厚木基地の周辺住宅防音工事が盛んにおこなわれていました。 防音工事を行うお宅を訪問し、現地調査をして図面を作成し、工事現場に足を運び、工事の進捗を管理するのが私の主な仕事でした。
私の専門分野は設計でしたが、時間があるときには、工事部門の一般住宅の新築工事、リフォーム工事の現場に足を運び、仕事を手伝いながら現場のことも学んでいきました。
当時、外注業者に頼らず自分たちで多様な工事を行っていた関係で、土木工事、外構工事、鉄筋コンクリート工事、型枠工事、鉄骨工事、左官工事、大工工事、クリーニング工事など、私は現場の様々な工事を経験することができました。
設計や現場で忙しい日々を送っていたある日、本田静六さんが書いた「自分を生かす人生」という本と出会いました。
その本には、「人生の最大の幸福は職業の道楽化にある」と書かれていました。
富も名誉も美しい服も、おいしい食べ物も職業の道楽の愉快さにはとてもかなわない。
名人といわれる画家、音楽家、作家などがその職業を苦労としないで楽しんで道楽としてやっているのと同じく、それぞれの人が自分の仕事を道楽にしていくことが大切である。そしてその方法はただ一つ、努力にある。
はじめの間こそ多少の苦しみはあるが、すべての歓喜も幸福も、努力を通して初めて得られるのだと自覚して、自分の職業を天職だと確信し、迷わず、専心努力すれば必ず仕事がわかって上手になる。 上手になるにしたがい、始めは自分に向かないと思われた職業も次第に自分に適するようになり、自然と職業に面白みを感じる。一度その職業に面白みを持てば、もはやその仕事は苦労ではなく道楽に変わる。
私はとても感動し、一生懸命に仕事に励みました。
1年経ち、2年経つうちにその言葉通りに仕事がとても面白くなり、やがて自然と仕事が道楽と思える様になりました。
そのときに私は初めて昔から言われている「職業に貴賤は無い。どのような職業であってもそれぞれ尊い。」という言葉の意味が少し分かったような気がしました。
この設計事務所での仕事はとても楽しい日々でした。
現場に出ている時は一戸建て住宅の新築工事も手伝うことができました。
時には大工さんと一緒に棟上げの作業にも何度か参加させてもらいました。
棟上げとは柱と梁を組み上げる作業で大勢の大工さんやクレーン車なども使って家の骨組みを作る作業です。
当時はまだ棟が上がると、お祝いでご近所の人たちに屋根の上からお餅を撒いたりすることも度々ありました。
ある時、私は骨組みの段階で屋根の先端で怖くて動けなくなり、大工さんから「おーい、屋根の上で蝉が1匹動けなくなっているようだから誰か助けてやってくれー」とからかわれた事もありました。
そんな私に、再び転機が訪れました。
30才を過ぎ、設計と現場で次第に経験を積んでいった私は心の中でひとつの大きな不安を感じていました。
建築という仕事は様々な工事があり、要求される知識もとても膨大な業種です。
私は建築の学校を出ていなかったため体系的に建築を学んでおらず、自分の仕事に対する知識は本物なのだろうか?という疑問が次第しだいに大きくなっていったのです。
意を決した私は、学校に通って二級建築士の資格を取ろう、そして建築についてしっかり学び、基礎を固めようと決意しました。
私は7年間勤めた設計事務所を退社して1年間建築の資格学校に通いました。
二級建築士の資格を無事取得することができた私は、同じく神奈川県相模原市にある工務店の現場監督として再びスタートを切ることとなりました。
この工務店を選んだ理由は以前と同じく木造住宅をメインに手掛けている会社であり、アットホーム的な雰囲気の会社であったことです。私は大手ハウスメーカーの協力施工店の現場監督として仕事をすることとなりました。
現場監督を選んだ理由としては木造一戸建て住宅の施工をスタートの基礎工事から完成までを、実際の現場からの視点でしっかりと実務を通して勉強してみたいと思ったからです。
私は約10年間、現場監督として仕事をさせて頂きました。
その中で特に一番学んだことは、住宅の建築はとても多くの職人さんの手によってつくられ、しかも人の手によって一棟一棟出来上がっているということを自分の体で、しかも肌で体験したことです。
また、多くの職人さんがそれぞれ熱い思いで仕事をしていることに、とてもエキサイティングな気持ちを感じました。
実際に現場担当として仕事をしていると今まで見えていなかったことが改めて見えてくることがありました。それは完成された現場だけを見ていてはわからないのですけど、工事中の家であってもとても美しい家があるのです。私は工事途中の現場にこそ、その家の良さが明確ににじみでていると感じました。
言葉を変えて言うと施主さんからの熱い情熱を受け継いだ住宅の設計者、そして現場監督、そして大工さん、そして他の職人さんへ…リレーのバトンを受け継いでいくように「良い家をつくりたい」という思いが結晶してとても美しく、そして生命エネルギーを宿して生きている建築物となっていくのではないでしょうか?
それが「生きた建築」につながるのではないかと強く感じました。
以前、わりと親しくしている大工さんにそのことを聞いてみたことがあるのですが、このようなことを話してくれました。
「ひとつの現場をやりとげると体から力が落ちて魂が抜けたようになるんだ。その時は疲労困ぱいになるけど、しばらく休んでいるとしっかりエネルギーがチャージされるんだよ。だって俺ら命がけで家つくってるから…」
と説明してくれました。
当時、会社ではハウスメーカーの下請けの仕事と、もう一つ自社オリジナルの自然素材住宅をつくり始めていました。私はハウスメーカーグループに所属していたのですが、あるとき社内合同現場パトロールというものがあり、自社の自然素材住宅の現場を訪れました。その時に「とても強烈で、とても心地よい体験」をしたのです。
もともと私は少し、シックハウス症候群(化学物質過敏症)の傾向があって、住宅の建材に含まれる化学物質に過敏に反応してしまう体質だったのです。ところが、その住宅に入ると、体がとても楽でリラックスできるではありませんか。
私はものすごく感動したので、さっそく、この心地よさの理由を調べてみました。
などの理由がわかってきました。
そして私は何度か自社の現場に顔を出し、いろいろ体感をし、自分なりに勉強した結果、「本当の自然素材でつくられた家は、自信を持っていろいろな方にお勧めできる。」と確信しました。
そして私は自社の自然素材住宅グループに異動させて欲しいと社長にお願いしました。 けれどすぐには希望が叶えられませんでしたが、3年後、希望がかなって自社部門の営業、設計担当にさせて頂くことができました。 それ以降は自然素材住宅の設計をメインに仕事をさせて頂いております。
その間、宅地建物取引士とファイナンシャルプランナー3級を取得し、土地探しから、また、資金相談からも対応できるよう準備してまいりました。
2016年の4月から個人でSEISHIN建築設計事務所を立ち上げ、多くの人に健康住宅(自然素材住宅)を知って頂きたいと決意いたしました。
「子供のアトピーが良くなった」「喘息がひどかったのが収まった」「シックハウス症候群の症状が出なくなった」「夜、とてもぐっすり眠れるようになった」など、これまでに自然素材住宅にすでにご入居済みのお客様から多くの、そして様々な喜びの声をいただきました。
このような感想に接し「やっぱりこの仕事は間違っていなかった。この方向でよいのだ」と確信しました。
これからもひとりでも多く、そして、ひと世帯でも多く、
健康で幸せなご家庭を築くためのお役に立ちたいと決意を新たにしています。